・・・さて。
前の記事で書きました、親戚のおばあ様の初七日も済みまして。
いくらなんでもここから先は、前の記事と一緒に書くと
さすがに不謹慎になるかなと思い、記事を分けました。
・・・不謹慎なんだ。(苦笑)
葬儀には私も、過去に何度か参列しておりますが。
今回の葬儀の際には、諸々時間的な都合上、
残念ながら火葬場までは同行出来ませんでしたが、
過去に2~3度、実際にお骨上げまで立ち会ったことがあります。
で、「火葬」と言うイベントに「初めて」直面したとき、
誰しもが同じことを考えるかも知れませんが・・・
当時まだ何も知らなかった若かりし頃の私は、
亡骸が焼かれて、骨になって炉から出て来る際、
「こんな爆裂した状態で出て来るの!?」
「頭蓋骨は判るけど、ノド仏の骨ってどこ?これは何の骨!?」
「骨壷に入らないからって、良いの?砕いちゃって良いの!?」
そんな疑問符が、私の頭の中を駆け巡りました。
焼け焦げているのは容易に想像できましたが、一方であたかも
「骨格標本」のようになって出て来ると思ってましたからね。(苦笑)
想像と現実のギャップ。
ある意味でショックでした。
「現実よ、受け止めなさい。」
↑
(三石琴乃さんの声でお願いします。)
そしてまた、お通夜と告別式で、
お寺の住職や葬儀委員長が、故人のプロフィールを語る際、
人柄を悪く言うことはまずありませんが、
「何かに長けていた」
「こんな特技があった」
と言った、目立ったエピソードが何かしらあったほうが良いのかなぁと、
私自身に置き換えて考えてみたりしまして。
そう考えると、最近でこそ「終活」とか「エンディングノート」とか、
色々な「人生の幕引きのかたち」が巷で話題になっておりますが、
そう言うものも今のうちから、遺しておいたほうが良いのかな、
とも思ったりします。
私もこの歳になってくると、何が起こるか分からないですしね。
せめて「最後の自己表現」と言うか、私が今まで撮った写真は「作品」として、
また「家族との想い出」として、遺してから逝きたいものです。
ちょっと考えさせられた数日間ではございました。
さて、これから私も「デスノート」の作成を・・・(自爆)
-------------