あぁ、徒然なるままに

私の趣味や日々の出来事についてを、自分の独断と偏見による、やや倒錯した文章で徒然なるままに書き記すブログです。

Stand Alone Complex

今回はちょっと語ります。(笑)


以前にも書きましたが。
歩きながらとか、地下鉄とか、場所を選ばずに
携帯やスマートフォンをいじっている人を見かける度に、
思うことがあります。

新聞やメディアでは、「依存症」とか書かれていますが。
確かに「依存」もあるでしょうが・・・
しかし私は、その「依存」状態とは、少し違うように思えてなりません。

何故違うように思えるのか。
我が身を振り返って、考えてみました。


これも以前に書きましたが。
私自身も写真SNSに登録していて、それにどっぷりハマっていた時期がありました。
そのSNSは、単なるコミュニケーションSNSではなく、写真技術向上の目的が強いSNSで、
参加している誰しもが「より良い写真を撮ろう」と切磋琢磨し、友達登録をして
コメントを交し合い、最終的に3度のグループ展が開催され、私も参加するに至りました。
しかし、その「繋がり」が大きくなっていくに連れ、次第に負担になって行ったことも事実。
SNSの終了と同時に、私の中でも「何か」が一段落し、
全ての繋がりを再構築することなく、そのまま散開して行きました。

その頃の自分とも比較して、今の「個人ツールとしてのネットのあり方」を考えると、
依存以上の何か「歪み」があるように思えてなりません。

では、その「歪み」とは何なのか。
地下鉄の吊革を掴んで揺られながら、色々と考えてみました。


私は朝晩と、地下鉄を利用しています。
その地下鉄に乗っている時に、明らかに違いのある人々の特徴を見つけました。

「地下鉄に乗って、立ちながらでも本を読んでいる人」と、
「地下鉄を乗り過ごしてでも、ベンチで携帯やスマートフォンをいじっている人」です。


携帯やスマートフォンをいじっている人が、どうしても「二宮尊徳」に見えない理由
おぼろげに解りました。
ここからは、私の偏見と推論で書きますが。


端的に言えば、「個性を伸ばすか、没するか」の違いがあるのではないかと。
極論すぎますかね?
まぁ、聞いてくださいよ。



携帯やスマートフォンをいじっている人々全てがそうだとは言いませんが、
少なくとも「本を読んでいる人」は、「SNSの誰かの書き込みをチェック」は
していないハズです。

ここで既に違いがありますが。


まぁ、逆に、地下鉄で漫画を読んでいる人もいますが、そんな例は少数として、
それでも押し並べて「本」とは、何がしかの「先人達の知識と経験」の集積である訳です。
それを読んで吸収しようとしている人達は、何か「自分を向上させる」目的、
所謂「個性」の向上を目指している訳です。

一方、携帯やスマートフォンをいじっている人々はどうでしょう。
これも、電子書籍を読んでいるかも知れないという可能性もありますが、電子書籍を読むのなら
頻繁にキーをいじったり、画面をひっきりなしにツンツンしないでしょう。
本当に電子書籍を読んでいる人は、ここ6年で一人しか見た事がありません。
恐らくゲームをしている人も多いのだと思いますが、大体が「誰かしらの書き込み」を読んでいるか、
せいぜい「ニュースチェック」くらいでしょうか。
「恒久的な知識と経験の蓄積」ではなく、「急場の情報」が優先されているのではないかと。
端的に言えば「話題作り」と「暇つぶし」です。
そうでなければ、マナーを侵してまで自分を高めようとはしないでしょう。


これに気付いた時、別にもう一つの法則性を見つけました。

「個性」とは何なのか。

私は、自己の知識と経験の積み重ねが「個性」足り得ると思っております。

その「個性」が、最近は極端に失われつつあるのではないかと。

先日の新聞でも書かれていましたが、風邪でもないのに「伊達マスク」をしている人々が
多くなって来ているとのこと。
「個性を隠すことで、匿名になる」ことが目的なのだとか。

この記事を読んで、いかがなものかと思いました。

「個性を失くす」=「自己の損失」な訳ですよね。
そこまで自分を隠し、「個」を特定されたくないのでしょうか。

その一方で、多様なツールを駆使し、多くの人々との繋がりを持ちたいと言う、
二律背反な願望。
それが恐らく、寸暇を惜しんでSNSに接続する理由でしょう。

私はこれを、「個性無き連帯感の歪み」と呼んでいます。


一人突出する事をすれば、下手をすれば叩かれ、潰され、仲間外れや村八分にされる。
そうならない為に当たり障りの無いことを書き、広く人脈を構築する。
・・・何か歪んでいると思いませんか?


個性を殺して自らのアピールの仕方すら知らないのに、ネットツールの利便性に触発されて
自己顕示欲だけが突出するので、話題性だけで物事の良し悪しを考えずに行動する
安直な輩の多いことと言ったら・・・
皆さんもご存じと思いますが、コンビニの冷蔵庫の中に入って写真を撮ったり、
トンでもない「テラ盛り」の牛丼を裏で作ったりして、問題になったことが多々ありましたね。
個性以前に、「人としての倫理観」すら殺してしまったのか、と憂う今日この頃です。

イメージ 2


「毒がある」のも、一つの個性です。
それがチンピラや暴走族等、客観的に観ても過激すぎたり害があるのなら、話は別ですが。


「毒のある、強烈な個性」
私の趣味の「写真」の例で恐縮ですが、ちょっと例を挙げてみましょう。


写真家として有名な、篠山紀新、加納典明荒木経惟の御三方。

これも以前の記事に書きましたが、私はこの御三方が、余り好きではありません。(苦笑)
しかし写真家として、腕も知識も経験もあり、作品は凄いものがあります。
それは全く否定できません。

その一方で、孤立したり叩かれたりするのを承知で、あくまで自分の責任の名の下で、
それでも「ここで言わず(やらず)におらりょうか!」とアピールするのは非常に良く判ります。
本来それだけの覚悟が必要でしょうし、賞賛もあれば批判もあり、
先の御三方は見えぬ世間のボーダーラインと戦っているのだとも思います。


そういったクリエイティブな活動と比較すると、自ら「何か」を紡ぎだすことなく、
それら以外の、特に誰しもが「寸暇を惜しんで」やっているような「つぶやき」SNSでは、
ちっぽけな文章で書かれた誰かの日常の経験・体験をなぞり直しして、ただ共感するフリをし、
当たり障り無くコンテンツを消費していくだけに見えてしまいます。
残念ながら、そこに「個性の向上」は見られないのではないでしょうか。

イメージ 1

「イビツな繋がりと、脆くも希薄な連帯感を拡散する」
そんな事が、ネットの本来向かうべき先では無いはずです。

グループの中から発生したイレギュラー、所謂マイノリティー
それも「個性」が導き出した、一つの結果であると思います。
ですが、法や倫理、正義や常識を覆すような内容ではない限り、
叩いたり排除したりするのはお門違いではないでしょうか。
「LINEで即返事をしない人を仲間外れにする」なんてのは、そんな「間違い」の典型です。


しかし、もし仮に排除された側になっても、何も悲観することはありません。
逆に考えると、そんな「毒にも薬にもならない、イビツで希薄な連帯感のネットワーク」から
除外された人は、平坦なネットの海から新しいコンテンツ作成のきっかけになる「個性」を持つ人、
所謂クリエイター、創造できる人々かも知れないのです。

常識にとらわれない自由人であり、変人でもあり、その一方で現代物理学に名を馳せた
アインシュタインの例もあります。


個性があるからこそ視点も変わり、伸びたり、学べたりできるのであって、
結果として、人間の幅が広がります。
同じ物事でも、吸収の仕方は人によって千差万別。
その咀嚼・吸収の仕方の違いから個性が強調され、新しいコンテンツを生み出した時に
その人「らしさ」が表れます。

コンテンツを「提供する側」に立つ、クリエイティブな人々を私も多く見て来ておりますが、
そう感じることが非常に多いです。


では最後に。

その「個性」を維持し続ける原動力とは、何でしょう?


一言で言えば「好奇心」

色々なものに興味を示し、それを咀嚼・吸収することで「個性」は成長します。
小さな子供が成長する過程と同じです。

「個性」の成長が、「歪んだ連帯感と言う束縛」からの「自立」と捉えるなら、
「没個性の大多数」は「自立を望んでいない」≒「Stand Alone Complex」。

近未来を描いた、士郎正宗氏原作の「攻殻機動隊」にて登場するテーマの一つが、
もう現代において発現されているように思えてなりません。


言葉は悪いですが。
「個性無き連帯感の歪み」と「マイノリティーを排除する風習」を考えると、
歪んだ「数の暴力の行使」は、実は「劣等感の裏返し」とも取れるのではないでしょうか。


-------------

にほんブログ村」 ランキング参戦しております♪
↓ポチッとお願いします。
\?\᡼\? 2